カルタゴ戦争

カルタゴ戦争―265BC‐146BCポエニ戦争の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)カルタゴ戦争―265BC‐146BCポエニ戦争の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
テレンス ワイズ、リチャード フック 他

商品詳細を見る

フェニキア人によってチュニジアに築かれた都市カルタゴは、地中海の覇権をめぐり協和国ローマと激突する。265BCに勃発したカルタゴ戦争(ポエニ戦争)はカルタゴが滅亡する146BCまで3回にわたって行われた。本書は、当時のカルタゴおよび敵対するローマの軍事行動を中心に解説。両軍の部隊編成から装備、戦法にいたるまで、その効果とともに詳細に語られている。


世界史の授業ではローマの敵として軽く触れられる程度で、あまり詳しくは教えられないカルタゴ側視点も多いのが興味深い。当時の地図を見ると、地中海の島々はカルタゴが押さえており、東方でギリシアの拡大を阻止するだけなくイベリア半島まで版図に組み込んでいる。カルタゴは地中海世界をローマ帝国と二分する大勢力であり、支配権を巡って激突するのは必然だったのかもしれない。

最終的にカルタゴが滅ぼされるまで、3度も戦争が起こっているが、終始ローマが優勢だった訳ではなく、ローマ帝国が敗北している戦闘もある。ローマ側に運命の天秤が傾かなければ、全く違った歴史が展開されていた可能性もあるわけで、カルタゴ戦争は歴史の重要な転換点になっていると思う。

カルタゴは紀元前814年頃、パレスチナから渡ってきた人々によって、チュニジアに築かれた。テュロスが紀元前6世紀の前半にバビロニア王ネブカドネザルによって破壊されると、カルタゴが“地中海の女王”の座を得る。テュロスとシドンが建設した植民地がギリシアの脅威にさらされると、カルタゴがギリシアを抑え、シリチアや近隣の島々を植民地化した。

カルタゴはバレアレス諸島、スペイン、サルジニア、リビア、アルジェリアと植民地を拡大し、ジブラルタル海峡を越えてモロッコ、マウレタニア、セネガル、ギニア、マディラ諸島、カナリア諸島まで支配地域が広がった。

政治の実権は貴族が握っていたが、貴族の資格は血筋ではなく富にとって決められた。最高政務官(王)は毎年選挙によって選ばれた。一見すると先進的だが、実際は同じような人ばかり選ばれ、人民議会と元老院が対立した事が、カルタゴ没落の原因のひとつとなった。

シチリア島の支配権をめぐってローマとの戦争が始まるが、優勢だったカルタゴが油断して海軍を縮小したため、再建されたローマ艦隊に敗れる事となり、第一次ポエニ戦争は終結する。

ハンニバルがイベリア半島を制圧し、ローマの同盟都市サグントゥムを陥落させた事で、第二次ポエニ戦争が始まる。ハンニバルは5万の兵と37頭の戦象を連れてアルプスを越え、イタリアに進軍。紀元前216年のカンネーの戦いでローマ軍を完敗させるが、日和見の立場を取った愚かな本国のせいで、連携も取れずに膠着状態が続く。

ローマがハンニバルとの決戦を避け、カルタゴ本国に侵攻するという作戦を取ったため、ハンニバルは本国に召還されてしまう。結果、第二次ポエニ戦争もカルタゴの敗北で終わる。国の上層部が馬鹿だと、勝てる戦争も負けてしまうという良い例である。

カルタゴには賠償金が課せられたが、貿易によって経済的繁栄を取り返してくると、ローマ至上主義者のマルクス・カトーなど、主戦派の力が増し、完全に滅ぼされる事となる。ローマ軍によって完全に破壊されたため、現存するカルタゴ遺跡はカエサルが再建させた植民地時代以降のものである。
スポンサーサイト

秘密結社テンプル騎士団

4391121743秘密結社テンプル騎士団―謎に包まれた聖地の守護者 (開かれた封印 古代世界の謎)
ニコラス ベスト Nicholas Best
主婦と生活社 1998-05

by G-Tools

テンプル騎士団とはどのような集団だったのか。単なる修道騎士団か、それとも、悪魔崇拝者にして謎めいた偶像崇拝者か。そして、なぜ彼らは迫害され続けたのか。現代もフリーメーソンとしてその命脈を保つ秘密結社の謎。


開かれた封印 古代世界の謎12

ハリウッド映画などでよく登場するテンプル騎士団だが、十字軍の時代に活躍したこの秘密結社は、悪党どもにな擦りつけられた冤罪で悪魔崇拝者とされてしまい、悲劇的な結末を迎える。

テンプル騎士団は、聖地エルサレムの巡礼者が道中無事で過ごせるよう、彼らを保護するために設立された。当時は、初代総長ユーグ・ド・パイヤン、その相棒ジョフロワ・ド・サントメールを含め、僅か9名しかいなかった。他の宗教騎士団とは異なり、軍隊色を強調していた。

当初、テンプル騎士団には宿泊場所すら無かったが、やがてエルサレムの二大聖所のそばに住居施設が設けられる事になった。騎士団本部を兼ねた領主館はソロモン王の神殿跡と思われる場所に建てられ、テンプル騎士団(神殿騎士修道会)という名称となった。

エルサレムを攻略した十字軍兵士はすぐに帰国してしまったため、常駐するテンプル騎士団の重要度が増して行った。キリスト教圏の各国から費用を募ったところ、膨大な活動資金を得る事になった。十字軍遠征に係る費用を長年管理してきた結果、一介の兵士ではなく、銀行家や財務官としての能力を兼ね備える事になる。9000か所にも及ぶ所領を持つ大地主にもなっていった。

秘密主義的なテンプル騎士団には、次第に良からぬ噂が立つようになったが、財政難だったフランス王フィリップ4世に目を付けられてしまう。告発の大半は冤罪だったと思われるが、テンプル騎士団ノルマンティー管区長ジョフロワ・ド・シャルネーとテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーを始め、大半の団員が悪魔崇拝者として捕えられてしまった。

教皇クレメンス5世も、フィリップ4世の後押しで教皇に選出されていたので、フランス国王の味方となり、テンプル騎士団を断罪した。捕えられた団員の多くは、罪を認め暗い牢獄で緩やかに死んでいく方を選んだが、ジョフロワ・ド・シャルネーとジャック・ド・モレーは無実を主張して火あぶりとなった。

死に行く瞬間、総長は「我らに仇なせし者に災いあれ! 我らが無念は神によって晴らされん。いずれ神より正義の裁きが下されようぞ。我らが敵どもに、みずからの成したる行いの報いとして、我らと同じ苦しみを与えたまえ!」と、敵を呪いながら焼かれていった。

それから33日後にクレメンス5世が死んだ。7か月後にはフィリップ4世も47歳で急死した。本当に呪われたのか、ただの偶然なのか、誰にも分からないようにテンプル騎士団側の人間が暗殺したのかは知らないけど、因果応報な感じである。

それにしても、フィリップ4世は端麗王と呼ばれていて、コーエーのシミュレーション・ゲームでも随分とイケメンになっているのに、金を奪うために冤罪事件を起こすようなクズ野郎だとは知らなかった。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

ミルクの歴史

4562050616ミルクの歴史 (「食」の図書館)
ハンナ・ヴェルテン 堤 理華
原書房 2014-05-20

by G-Tools

おいしいミルクには実は波瀾万丈の歴史があった。古代の搾乳法から美と健康の妙薬と珍重された時代、危険な「毒」と化したミルク産業誕生期の負の歴史、今日の隆盛まで、人間とミルクの営みをグローバルに描く。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


動物のミルクは最も賛否両論のある食物であり、「白い毒」と敵視されたり、「白い妙薬」とあがめられたりした。動物が食べた牧草の成分は、薬効のあるものも毒性のものも、ミルクにも混ざる。19世紀初頭には、アメリカ中西部で、マルバフジバカマを食べた家畜のミルクを飲んだため、何千人もの人々が死亡した。

ミルクには水のように寄生虫が潜んでいたりしなかったので、重要な栄養源となった。次第に、ミルクがよく取れる動物が選ばれるようになった。豚は不潔だと看做されただけでなく、搾乳も大変だったので、これで商売をするのは無理だったに違いない。牛が選ばれるようになったのは、一度の搾乳でミルクをたっぷり出すからである。

赤子ではなくなってもミルクを飲む動物は人間だけだが、人間でも6歳を過ぎると乳糖(ラクトース)を分解する酵素ラクターゼが激減する。ミルクを飲み続ける文化圏の人々は、遺伝的に乳糖耐性がある。牛乳が飲めない人でも、チーズやバターに加工すると食べる事が出来るのは、乳糖が分解されるからである。

ミルクの状態では運ぶ間に腐ってしまうため、地産地消が基本であった。冬になると家畜はミルクを出さなくなったので、予めチーズなどに加工しておく必要もあった。ローマ帝国を始め、中世あたりまでは上流階級がミルクを蛮族の飲み物、貧乏人の飲み物として敬遠したり、馬鹿にしている傾向があるが、これは鮮度の問題で、産地から支配階級が住む都市部に運ぶまでに悪くなったからじゃないのかな?

貧乏人の飲み物と看做す者がいる一方、若さを保つためにクレオパトラや暴君ネロの妻ポッパエアなど、ミルクを利用している支配階級も存在するのが面白い。イメージ画像として、映画『暴君ネロ』の乳風呂を楽しむポッパエア(クローデット・コルベール)が掲載されているのだが、美しくて素晴らしい。(*´Д`)

これは乳風呂に入ったから美しくなったのではなくて、美しい人が乳風呂に入っているだけなんだからねっ! 真似しても、美しくはならないんだからねっ!

次第に、ミルクは特別な飲み物であるとの認識が高まって来るのだが、アルジェリア反仏運動の指導者アブド・アルカーディルによれば、ラクダの乳にはスピードを与える作用があり、十分な期間、ラクダの乳を飲んで過ごすと、馬くらい速く走る事が出来るようになるらしい。いくらなんでも魔法薬ではないのだから、さすがにこれは言い過ぎである。

近代に入ると都市化が進み、ミルクを売るためのネットワークが整備されるが、現代のように衛生的でもないし、鮮度を保つための技術も無かったので、悲劇をもたらす。病原体に汚染されたミルクが疾病率や死亡率の主因となり、「白い毒薬」と看做されるようになってしまう。

都市部では、ビール醸造や蒸留酒製造の際にでるカスで牛を飼育したため、牛が病気になるばかりか、ウイスキー味のミルクになってしまったりした。味を誤魔化したり水増しするために汚染水が混ぜられて、さらに酷い事になった。

都市部の牛乳が恐ろしい事になっているので、田舎からの輸送が始まったが、ゴミやほこりが入り放題だったし、冷蔵設備もない時代だから、病原菌が繁殖するには十分な時間だった。1899年にセントパンクラス駅で検査した際には、異常のないものが32%しかなかった。6%は汚染されており、16%が微生物過多、12%に白血球過多(牛が感染症にかかっている)、24%に膿の痕跡、10%に牛型結核菌(牛乳を介して人にも感染する)が認められた。牛乳を飲んだら結核になるなんて、命懸けじゃないか。こんなの飲んでられないよね。

牛乳の腐敗を止めるためにホウ酸やホルマリンが混ぜられたりしているし、まさに「白い毒薬」以外の何物でもない。文末化する事で、病原菌の汚染は食い止められたが、特定の栄養が足りていないために赤子が病気になったり、混ぜる水が汚染水だったりしたので、問題は山積みであった。人間の赤ちゃんは牛乳じゃなくて母乳で育てろよ! と、ツッコミを入れたいが。

我々は汚染されて不潔で危険な牛乳、所謂「ミルク問題」を解決する必要に迫られる。1800年代の終りになってもまだ、牛乳は安全ではなかった。低温殺菌が有効であったが、これには酪農家が抵抗勢力となって反対した。都市部では余計な混ぜ物をしているし、産地でも金儲け優先で抵抗するという……。特にアングロサクソン支配地域で、こういう「金が命より重い」風潮があるよね。アングロサクソン型資本主義の影響を受けている、何処かの島国も「金が命より重い」国になってしまったが。

1930年代になっても、牛結核由来の感染は無くならず、牛乳を飲んだために2000人の乳児が死亡したらしい。水や牛乳よりもビールのほうが安全な世界って嫌だよね。長い間、牛乳が危険な飲み物であり続けたため、不信感を払拭するのは大変だった。人気モデルや運動選手を起用して、ミルク髭(牛乳を飲んだ直後に口の上についている状態)のポスターを張ったりしている。

ミルクが白い毒薬なのか、妙薬なのかは、未だに議論となるが、個人的には乳糖耐性が無いらしいから、飲まないので関係無いや。本書に書かれてある事ではないけど、乳糖耐性の無い人が飲むとガラクトースが水晶体に溜まり、白内障を起こす例があると報告されているのも怖い。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

マンガ ローマ帝国の歴史3 カリグラ、ネロ、ユリウス朝の崩壊

4062140454マンガ ローマ帝国の歴史3 カリグラ、ネロ、ユリウス朝の崩壊
さかもと 未明 小堀 馨子
講談社 2007-05-25

by G-Tools


アウグストゥスの葬儀の数日後、紀元14年9月17日の元老院会議はティベリウスを第一人者(プリンケプス)として承認した。ローマの第一人者は世襲の王とは立場が違う。第一人者となるには元老院とローマ市民両方の承認が必要だった。実体は独裁君主政であるが、形式上は貴族民主政が保たれていた。

ティベリウスは皇帝となったが、皇帝の不在を狙ってライン川の8個軍団が反乱を起こしていた。ドナウ防衛線のパンノニアの軍団にも不穏な動きがあった。ティベリウスは軍を指揮せず、ライン川はゲルマニクスに任せ、パンノニアにはドゥルーススを向かわせた。

ティベリウスは堅実な政治を行ったが、庶民には人気がなかった。いつの世にも大盤振る舞いに人気が集まる。何処かの島国も、未来から借金をして散財し、愚民の人気を集めているよね。

ティベリウスはエルベ川防衛途中のゲルマニクスを引上げさせ、凱旋式を行う。この判断は評価されにくく、賛同する者もいなかった。どちらが良かったのかについては、後の世から見ても判断が難しい。エルベ川防衛線の構築に成功すれば、ゲルマニアはローマのものとなったからである。だが、防衛負担はより重くなっただろう。ゲルマニアから撤退する事で防衛負担が少なくなった事は事実であり、これがローマの安全保障を確実にした可能性もある。

東方でも問題が発生していた。アルメニアの民が現国王を放逐し、ポントス王の息子ゼノンを王位につけようとしていた。パルティアもそれに助力していた。アルメニアを親ローマのまま留めるため、ゲルマニクスを派遣する。ゲルマニクスはまだ若いので、ピソをシリア総督として派遣し、協力させた。

アルメニア王の戴冠とパルティアとの友好条約の更新は滞りなく終わったが、シリア総督となったピソが、ゲルマニクスを邪魔し始める。ゲルマニクスはエジプトを訪問するが、その後、熱病にかかり、紀元19年10月10日、シリアで没した。

紀元23年、ティベリウスの息子ドゥルーススが急死し、毒殺が疑われた。ティベリウスの猜疑心は深まり、アグリッピーナとネロ・カエサルは流刑となった。アグリッピーナはパンダテリア島で餓死した。側近として仕えたセイヤヌスも、ドゥルーススの未亡人リウィラを望んだため、国家反逆罪で告発され、処刑される。

紀元31年からティベリウスが死ぬまでの6年間は、血と粛清の恐怖政治が行われた。ティベリウスの死因については老衰、暗殺など諸説ある。帝位はカリグラに受け継がれた。

カリグラは若く美しい皇帝だったため、市民の支持を集めるが、統治者としては難ありだった。追放者を呼び戻し、売上税を廃止し、戦車競走などを開催させた。財源は、先代ティベリウスが蓄えた27億セステルテイゥスである。いつの世も、人気取りのために散財する者が人気者である。後でツケを払う事になるのだが、何処かの島国と同じく、馬鹿はそれに気づかないからね。

妹と結婚したり、神のコスプレで登場したり、プテオリからバイアエまで海上を船で繋げて戦車で走り抜けたり、エジプトからオベリスクを取り寄せたり、奇行が目立つだけでなく、散財する事にかけても天才的だった。カリグラはティベリウスが生涯をかけて貯め込んだローマのための27億セステルティウスを、たった3年で使い果たした。馬鹿皇帝であるが、こんな奴を支持する市民も馬鹿である。

国庫が空になると、裕福な者を冤罪や詐欺で陥れて自分の物にして金を使った。あまりにも無茶苦茶しすぎたので、ついに皇帝を守るべき近衛軍によって暗殺された。カリグラの死後、誰にも期待されずに生きて来た皇帝の叔父クラウディウスが元老院に承認される。

カリグラによって流刑にされた小アグリッピーナと息子ドミティウス・アエノバルブス(後のネロ帝)はローマに呼び戻される。クラウディウスは港に不向きだった場所に、オスティア港を建設する。ローマに各国の船が直接集まる事を重視したのである。やがてオスティア港は地中海最大となり、ローマの経済を大いに活性化させた。

クラウディウスは有能だったが、若い妻メッサリーナはクズだった。国庫の金で贅沢出来ないと分かると、金を持っている者を冤罪にして自分のものにした。不倫を続け、シリウスに皇帝暗殺を持ち掛ける。やりすぎた結果、メッサリーナは刺殺された。

皇帝の側近3人がそれぞれ美女をつれて来るが、姪の小アグリッピーナが割り込んで来て、クラウディウス帝と結婚してしまう。小アグリッピーナは野心を剥き出しにし、皇帝の側近も懐柔して権力を掌握して行く。クラウディウス帝は毒殺され、遺言状が無かったため、小アグリッピーナの連れ子だったネロが皇帝となってしまう。

ネロも無茶苦茶だったが、解放奴隷の美少女と結婚したがったり、庶民の姿でローマの市内に出かけて一人の男として喧嘩をしたりと、皇帝らしくはないが、カリグラと比べると人間味が溢れている。ポッパエアと結婚したくなったネロは、邪魔をする母を暗殺しようとするが何度も失敗する。

船を沈めても、泳ぎの達人となった小アグリッピナは陸地に辿り着いている。皇族なのに、サバイバル能力が凄すぎる。結局、ネロが差し向けた暗殺者集団に殺害された。ローマ大火で市内が焼けると、市民はネロ帝のせいにした。

ネロは焼け跡を区画整理して道幅を広げ、建物高さを制限したり、消火用器具の設置や耐火性のある石で建造する事などを義務付けている。これを見ると、散財するだめのバカボンだったカリグラと違って、有能な皇帝だと思うのだが、きっと急進的すぎて馬鹿には理解されなかったのだろう。

ローマ大火がネロ帝のせいにされると、ネロはキリスト教徒を首謀者として弾圧し始めるが、衰えた人気は回復しなかった。アルメニアを抑えて人気のあるコルブロまで自死させたため、ヒスパニア属州で擁立されたガルバが反乱を起こし、ネロも死ぬこととなる。こうして、ユリウス朝は崩壊した。

カエサルから始まったユリウス・クラウディウスの血統による帝国支配は終わったが、ローマ帝国自体は揺るがず、短命で終わるの軍人皇帝を経て、五賢帝時代へと繋がって行く。

というわけで、ローマ帝国の歴史となっているが、実際はユリウス・クラウディウス朝の歴史だった。この後、四皇帝、フラウィウス朝、ネルウァ=アントニヌス朝、セウェルス朝、軍人皇帝時代、テトラルキア時代、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝と続き、テオドシウス朝断絶後の最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが傭兵隊長オドアケルに敗れて追放されるまで、ローマ帝国(西ローマ帝国)の歴史は終わらない。

マンガで読むと、物凄く頭に入りやすいので、五賢帝時代も描いて欲しい。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

マンガ ローマ帝国の歴史2 アウグストゥス、揺るぎなき帝国の礎

4062139804マンガ ローマ帝国の歴史2 アウグストゥス、揺るぎなき帝国の礎
さかもと 未明 小堀 馨子
講談社 2007-04-21

by G-Tools


紀元前44年4月、オクタウィアヌスはギリシアからローマに向かう船上にいた。オクタウィアヌスがカエサルの後継者に指名されたが、カエサル軍の将軍だったアントニウスが軍の後ろ盾を得て、独裁者としてふるまっていたため、ローマは混乱していた。

イタリアに上陸すると、オクタウィアヌスはまずキケローに面会する。キケローは共和主義者なので進む道は異なるのだが、強敵アントニウスと戦うためには、老練なキケローを取り込む必要があった。18歳の少年が、この知識人すら手駒としか見ていなかったのだとしたら、恐るべきことである。

アントニウスはカエサルの遺産を押さえ込んだまま、自分が後継者である事を既成事実にしたかったが、オクタウィアヌスは父カエサルを記念する競技会を開催させるべく、有力者と面会する。

カエサルを暗殺した者達は隠れていたが、アントニウスの助けにより、カシウスはシリア属州総督として、マルクス・ブルートゥスはマケドニア属州総督として、合法的に海外脱出を果たす。

オクタウィアヌスは競技会を開催し、ローマの人々にその名を轟かせ、力を増大させていく。紀元前44年10月、カエサルがパルティア遠征のために集めた兵がギリシャから帰国し、ローマの情勢が一変する。

アントニウスは金で兵士を取り込もうとしたが、兵たちはカエサルの遺児オクタウィアヌスについた。「兵士で富は作れるが、富で兵士は作れない」というローマの諺通りの展開となった。

オクタウィアヌスに従う兵力が自分を上回る事を恐れたアントニウスは、北イタリア属州のデキウス・ブルートゥスに地位と軍団を明け渡すよう要求するが、拒否された。アントニウスはデキウスを攻撃する。ローマではキケローがアントニウス弾劾演説を行い、アントニウスをローマの敵に、オクタウィアヌスを救世主に仕立て上げていく。

オクタウィアヌスは軍を率いてアントニウスを攻撃し、アントニウスは西方に逃れる。ムティナの戦いで執政官のヒルティウスとパンサが戦士した。デキウス・ブルートゥスはガリア人に捕えられ、アントニウスに殺された。

オクタウィアヌスはアントニウスを追撃せず、ローマに帰還した。空席になった執政官に立候補させろと要求するが、軍事力を持ったオクタウィアヌスに抵抗出来る者はおらず、資格年齢より21歳も若い執政官が誕生する事になる。

美形で圧倒的なカリスマで若くして頭角を現すあたり、まるで銀河英雄伝説のラインハルトみたいではないか。オクタウィアヌスは、カエサルが生前求めた誓約に署名しながら破った者全員を有罪として追放する法案を通す。

オクタウィアヌス、レピドゥス討伐に向かったはずのオクタウィアヌスは、彼らと戦わず手を組むという、共和主義者ににとっては予想外の行動に出る。これで、ローマの実権は3人が掌握し、第2回三頭政治が始まる。

処罰者名簿には300人の元老院議員と2000人の騎士階級が載っていた。粛清されたのは130人で、残りの者は根こそぎ財産を奪われた。キケローも粛清された者の中に含まれていた。

ローマと元老院を完全に掌握したオクタウィアヌスは、ブルートゥスとカシウス討伐に向かう。ブルートゥス軍10万と三頭派軍12万がギリシアのフィリッピで激突する。ブルートゥス軍は破れ、カエサルを討った者は全て倒された。

西方世界をオクタウィアヌスが、東方世界をアントニウスが、影の薄いレピドゥスは北アフリカを掌握する事になる。アントニウスはエジプトに向かうが、クレオパトラの誘惑に負けてしまう。

紀元前41年の秋、アントニウスは本国にいる妻フルウィアと弟ルキウスに挙兵させるが、すぐに鎮圧される。アントニウスは妻と弟を見捨て、2人に責任を負わせる。酷い奴である。

オクタウィアヌスはアントニウスを許すが、ブルンディシウム協定を結び、互いの任地への不可侵を約束させる。オクタウィアヌスは姉のオクタウィアとアントニウスを結婚させ、自分はフルウィアの連れ子だったクローディアを貰うと言い出す。

その後、オクタウィアヌスはクローディアではなく、ポンペイウスの子セクストゥスの親戚スクリボニアと結婚する。ある日、クラウディウス・ネロの妻リウィアを見かけたオクタウィアヌスは、夫のクラウディウスに交渉して、正妻としてリウィアを迎え入れた。リウィアの連れ子は、後に皇帝ティベリウスとなる。

セクストゥスに不穏な動きがあるため、スクリボニアは離縁される。オクタウィアヌスはポンペイウス・セクストゥスを討伐し、勢力を増大させていく。

アントニウスはパルティア遠征を企てるが、シリアのアンティオキアでクレオパトラに会うと、とんでもない行動に出る。クレオパトラと結婚し、贈り物としてユダヤを除くオリエントの統治権をクレオパトラに与えてしまったのである。

紀元前33年、アントニウスはアレクサンドリアで凱旋式を挙げ、その功績をイシス神の姿をしたクレオパトラに捧げた。ローマ軍がエジプト女王のために貢献した証となるこの行為は、ローマへの侮辱と受け止められた。

紀元前31年3月、ローマ軍はギリシアに向かい、アントニウスはアクティウム海域のアンブラキア湾内で待機していた。アントニウス軍の指揮官は陸戦を主張するが、アントニウスは海戦を選択する。

この時、アントニウス軍のほうがわずかに有利だったらしいが、クレオパトラはアントニウスを見捨てて逃げてしまう。そして、アントニウスも彼のために戦ったローマ兵を見捨てて逃げてしまう。

紀元前30年8月1日、オクタウィアヌスはアレクサンドリアを占領し、エジプトの財宝は押収された。カエサルやアントニウスと違って、オクタウィアヌスにクレオパトラの色香は通用しなかった。クレオパトラは自決し、プトレマイオス朝は滅亡した。

ローマに凱旋したオクタウィアヌスは、自分に集中していた権力をローマ市民の手に返す事を宣言するが、これは独裁のための布石だった。

オクタウィアヌスはアウグストゥス(神聖を意味する)となり、常備軍と国税庁の創設を創設する。40歳になると、側近のアグリッパと共に執政官から退くと宣言した。執政官は毎年の市民投票で選出するようにし、やり残したことのために1年期限で護民官特権を望んだ。

アウグストゥスには肉体の不可侵権、平民を守る権利、平民会招集権、政策立案権と拒否権が付与され、異議がなければ自動的に更新された。

アウグストゥスの時代には、結婚生活の束縛を嫌う者が増えて少子化が進行したので、ユリウス姦通罪婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を成立させる。続いてパピウス・ポンペイウス法により、独身者や再婚しない者、子を産まない者は財産相続権を失った。

支配者としては成功したアウグストゥスだったが、私生活では恵まれていない。娘は淫乱で言う事を全く聞かないし、連れ子のティベリウスはロードスに引き籠ってしまう。残虐で頭のおかしい孫が生まれて来るし、優秀な世継ぎ候補は病気や怪我で先に死んでしまう。

血縁に拘り続けたアウグストゥスだったが、結局は地位を捨てて引き籠っていたティベリウスが呼び戻される。77歳目前でアウグストゥスは死に、ティベリウスが後継者となった。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

マンガ ローマ帝国の歴史1 ユリウス・カエサル、世界の運命を握った男

4062139030マンガ ローマ帝国の歴史1 ユリウス・カエサル、世界の運命を握った男
さかもと 未明 小堀 馨子
講談社 2007-03-23

by G-Tools


マンガだと侮ってはいけない。ローマ帝国史は結構難解なのである。古代史で最重要な帝国なので、絶対に試験に出る部分だし、やたら長い名前や似たような名前の人が多いので、覚えるのも大変である。

最近は世界史が必修になっているが、選択制だった時代は、長い名前が覚えられないという理由で日本史を選択している人が結構いたのだ。文章だけで書かれると分かり難いが、マンガだから読み進めるうち、ローマ帝国の歴史が自然に頭に入って来る。

本書は紀元前133年から始まる。すでにローマは、強敵カルタゴなどを滅ぼし、地中海に広大な属州を持っている。ローマ自体は豊かになったが、属州から食料が流入したため、農民は土地を手放す事になる。その土地を買い占めて奴隷を働かせることで、貴族階級だけがますます富を増やして行く。

貧富の差が拡大する様子は、何処かの島国みたいだよね。ローマと違って、属州は持っていないし、国自体も疲弊していっているから、何処かの島国は超劣化したローマかもしれないが。というか、当時は世界最先端の先進国だったローマと、どこぞの僻地にある蛮族の国を比較するのも失礼な話かもしれないが。上級ネトウヨあたりは、カルタゴ=日本論のほうが大好きだったりするよね。(下級ネトウヨは頭が悪いから、カルタゴなんて知らないが。)

紀元前133年、農地改革を目指したティベリウス・グラックスは、既得権益を守ろうとするクズな元老院勢力に襲われ、撲殺されてしまう。兄の遺志を継いで改革に着手した弟ガイウス・グラックスも、紀元前121年、自殺に追い込まれる。共和政が始まってから380年間、すでに元老院と民衆の間の溝は埋めようのないほど深くなっていた。

ガイウス・マリウスは傭兵制度を採用し、兵制改革を行う。無産階級の市民を傭兵に取り込み、仕事と金を与える事で、民衆派の流れを作って行く。当然、既得権益を守るクズ共は黙っていない。閥族派の代表、ルキウス・コルネリウス・スッラとマリウスの間で、内部抗争が始まる。

ローマの分裂状態を見た同盟市は、ローマ市民権を求め、反旗を翻した。同盟市戦争は、カエサルの伯父、ルキウス・ユリウス・カエサルがローマ市民権の拡大を認める事で、同盟市を解体した。

ユリウス・カエサルが育った時代は、カエサルの伯父マリウスの粛清と民衆派キンナの独裁、スッラの粛清と独裁、やがてルキウス伯父も粛清されるなど、殺伐としていた。

カエサルは優れた頭脳があったが、金も軍隊も無かった。カエサルは、火事や借金に苦しむ人々の家を買い占めて財を成すクラッススと、軍を指揮しているポンペイウスに目をつける。

次第に力をつけたカエサルは、クラッススを後ろ盾として、アッピア街道を整備する。大神祇官長に立候補して当選する。他の公職とは違い、大神祇官長に実権は無いが、終身制で他の職を兼任できるという部分に、カエサルは目をつけたのである。

カエサルの姉の娘アティアは、アポロ神殿に参籠中に不思議な夢を見るが、この後、ローマ帝国初代皇帝となるアウグストゥスを産む事になる。

貧困層が拡大する中、カティリーナは借金帳消しを計画するが、当然、既得権益層からは反発された。カティリーナを当選させないために、あらゆる汚い手が使われ、妨害された。潔白であるにも関わらず、汚職を疑われて立候補すら妨害されたり、ライバルの汚職が発覚して繰り上げ当選するはずが、キケローに揉み消されたりする。よく聞く名前だけど、キケローという奴も、既得権益層を守るクズだったのか。

正攻法では勝てないと考えたカティリーナは、クーデターを計画するが、結構前に発覚してしまう。ローマから追われたカティリーナだったが、さらに罠を仕掛けられて討ち死にする。カティリーナの反乱軍には市民が1万人も加わっていたのを見ても、ローマの窮状が限界を超えているのが良く分かる。

ポンペイウスが海賊征伐とミトリダテス討伐を成し遂げ、ローマに帰還した。ポンペイウスは凱旋式、選挙の延期、東方での施策の承認、退役軍人への土地の付与などを要求するが、元老院は何一つ認めなかった。自分達は既得権益で甘い汁を啜るばかりで何一つ役立たないのに、白蟻のような連中である。

アルバの別荘に引き籠ってしまったポンペイウスに接近してきたのは、カエサルだった。カエサルは自分の娘をポンペイウスと結婚させ、金貸しクラッススとポンペイウスを繋げることで、三頭政治が始まる。

クズ共は、カエサルがポンペイウスやクラッススを閥族派に引き込んだと思い込んだが、カエサルが執政官になると、議事録を民衆に公表し、ユリウス農地法を提案する。元老院の白蟻達は抵抗勢力となるが、ユリウスは血を流さずに法案を通過させてしまう。

抵抗勢力だったキケローは追放され、カトーはキプロスに派遣される事となった。カエサルはガリア属州知事に就任し、3個軍団を任されガリア平定を開始する。カエサルはクラッススやポンペイウスと連携して、ガリア属州知事の任期を延長させる。

カエサルはガリアだけでなく、ブリタニアまで遠征してローマの属州に組み込んだが、パルティアで戦っていたクラッススが戦死する。ポンペイウスに嫁いだ娘のユリアも死亡し、三頭政治体制が崩れてしまう。ガリアではウェルキンゲトリクスが武装蜂起し、ローマの守備隊は壊滅する。

カエサルは撤退も考えたが、26万の敵軍を5万のローマ軍で撃破した。しかし、ローマ本国では、ポンペイウスを抱き込んだ元老院が、カエサルを失脚させようと画策していた。元老院は、ルビコン川まで戻ってきたカエサルに、軍隊を解体しなければ、国家に謀反を企てていると見なすと通告してくる。

元老院の予想に反し、カエサルの離反者は1人しか出なかった。紀元前49年1月10日、カエサルの軍はルビコン川を越えた。カエサル軍は次々と諸都市を制圧する。それに対してポンペイウスは味方を見捨てて逃げ出す。見捨てられたローマ軍は降伏し、カエサル軍に加わった。

カエサルは国庫の金を引き出し軍資金にあてると、西のヒスパニアに向かい、ポンケイウスの息子達を討つ。この戦いにオクタウィアヌスも援軍として駆け付ける。それにしても、姉の孫のオクタウィアヌスが女顔イケメンすぎるだろう。

カエサル軍はギリシアにいるポンペイウス軍と戦うが、ドゥラキアムに入った敵を倒す事は出来ず、ファルサロスに移動する。追撃してきたポンペイウス軍を奇襲攻撃で破り、ファルサロスの平原は死体の山と化した。

カエサルはエジプトに逃げたポンペイウスの引き渡しを求めるが、すでにポンペイウスは暗殺されており、首が送られて来た。エジプトはプトレマイオス13世が統治していたが、遺言では姉のクレオパトラ7世と共同統治しなければならなかった。

遺言に従わないプトレマイオス13世はクレオパトラ7世を攻撃し、巻き込まれたカエサル軍はプトレマイオス13世の軍を撃破する。カエサルは暫くエジプトに滞在した後、小アジアに移動し、ポントス王ファルケナス2世の乱を鎮圧する。

もはやローマ本国に、カエサルを阻む者はいなかった。ポンペイウス側についてしまったキケローを許した事で、ポンペイウスの残党はカエサル派に組み込まれて行く。

アフリカではポンペイウス派の残党がヌミディア王国を味方につけていたが、カエサル軍はタプソスで勝利を収め、カトーのいるウティカまで攻め込んで来る。

カエサルは目に見える敵を全て倒したが、抵抗勢力が滅びたわけではなかった。紀元前44年3月15日、暗殺者達がカエサルを急襲した。その中には、ギリシャで命を助けたブルートゥスも含まれていた。暗殺者達は、自分達が正義だと思っていたが、民衆はそれを望んでいなかった。

カエサルの遺言により、姉の孫ガイウス・オクタウィアヌスがカエサル家の養子として4分の3の遺産相続人となった。残りはルキウス・ピナリウスとクウィントス・ペディウスに与えられた。一般市民には公園としてティベリウス河畔の私庭と1人につき300セステルティウスが寄贈された。

カエサルが暗殺され、自分が後継者として指名された事を、オクタウィアヌスはギリシアで知る。後にローマ帝国初代皇帝となる男は、この時まだ18歳だった。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

レモンの歴史

4562051116レモンの歴史 (「食」の図書館)
トビー ゾンネマン Toby Sonneman
原書房 2014-11-27

by G-Tools

しぼって、切って、漬けておいしく、油としても使えるレモンの歴史。信仰や儀式との関係、メディチ家の重要な役割、重病の特効薬…アラブ人が世界に伝えた果物には驚きのエピソードがいっぱい!レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


まだユーラシアとオーストラリアが繋がっていた2,000万年前、マンダリン、ザボン、シトロンという3種類の柑橘類が自然発生した。他の柑橘類は、この3種類が自然交雑する事で生まれた交配種である。

レモンは遺伝的特徴のほとんどをシトロンから受け継いでいる。シトロンは異様に大きく、でこぼこしたレモンといった感じの果物であると書かれているが、シトロンを見た事が無いのでグーグル先生に聞いてみたところ……。ちくしょう! よく分からんけど、眼鏡をかけた金髪キャラばかり出てきやがる(笑)!

シトロンはインド東北部に生えていたらしいが、メディア、ペルシア、バビロニアと旅を旅を続け、ユダヤ人によってパレスチナに到達。さらに、アレクサンドロス大王と出会い、地中海へ。欧州に到達した最初の柑橘類となるが、この時点ではまだシトロンであり、レモンに進化していない。

シトロンは水気が少なく、苦みがある不味い食べ物だったが、万病に効く薬や解毒剤だと考えられたため、珍重された。話の流れからすると、このシトロンが地中海でレモンに進化するのかと思うが、詳しい事が分かっていないだと!? ただ、4世紀にレモンとシトロンを混同している司祭がいるので、その頃には存在していたようである。

ペルシア人やアラブ人がレモンを好んでいたらしいので、地中海でレモンになったのではなく、原産地でレモンに進化したものが、シトロンの後を追って西側に旅をして来たのかもしれない。イスラム教の拡大とともに、レモンも地中海に広まった。シチリア島は、カリフォルニアに抜かされる20世紀の初めまで、世界最大のレモン生産地であり続けた。

今では普通に買えるレモンだが、中世だと宮殿の晩餐会で飾られる高級品だった。当時の物価が分からないので、具体的にどのくらいの高級品なのか不明だが、現代で例えると、金持ちの家に遊びに行ったら出て来る、諭吉さん単位の高級メロンみたいな感じだったのかね?

フィレンツェのメディチ家は柑橘類を栽培していたが、カテリーナ・デ・メディチがフランスのアンリ2世と結婚する時、料理人や菓子職人を同行させた。この料理人達が、レモンなどの柑橘類の利用を促した可能性が高い。カテリーナの孫、ルイ14世は温室で柑橘類を栽培し、権力の象徴とした。

大航海時代になると、船乗り達は海の疫病で300年間も苦しめられる事になる。この恐ろしい病で200万人を超える船乗りが死んだが、レモンが救世主となる事を知るまでに長い時間がかかった。

大西洋を渡ったレモンは、当初は欧州産のものと比べ物にならないほど粗悪品だったが、カリフォルニアで高品質のものが作られるようになる。柑橘類生産者販売協同組合がサンキストというブランドで売り込みに成功し、大恐慌が深刻化する中でさえ、レモン栽培農家の繁栄は続いた。

世界中に広がった柑橘類だが、良い事ばかりではない。1930~1950年代にトリステザというウイルスが広がり、1億本が枯れ、さらに何億本も被害が出た。人間で例えたら新型インフルエンザのパンデミックみたいな感じである。現在も、カンキツグリーニング病という病が広がっている。

レモンは食べるためだけでなく、洗剤、つや出し剤、消臭スプレー、シャンプー、保湿剤、香水など、様々な物に使われている。レモンを直接食べる事は少なくても、これだけ生活に関わっているとなると、レモン畑が壊滅したら困った事になるだろう。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

カレーの歴史

4562049383カレーの歴史 (「食」の図書館)
コリーン テイラー セン 竹田 円
原書房 2013-08-26

by G-Tools

「グローバル」という形容詞がふさわしいカレー。インド、イギリスはもちろん、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジアそして日本など、世界中のカレーの歴史について多くのカラー図版とともに楽しく読み解く。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


カレーといえばインド料理であるとイメージされているが、実際にはインドの煮込み料理は、サーグ、サンバール、コルマ、ダールなど、それぞれに固有の名称があり、「カレー」という料理はない。かつて宗主国だったイギリスが、インド料理をカレーとして諸外国に伝えたので、そう呼ばれるようになった。

東インド会社が解散させられ、帝国総督府が創設されると、植民地支配の傾向が強まり、インド料理も敬遠されるようになった。カレーは社会的地位を失い、上流階級の食卓から姿を消したが、軍隊の食堂や、イギリス本国の一般家庭では相変わらず食べられていた。

カレーを普及させた最大の功労者は、1982年にカレークラブを創設したパット・チャップマンである。彼が多くの出版物でカレーハウスやバルチ・レストランのレシプを紹介したので、非インド系の人々も、自宅で手軽にカレーを試せるようになった。

マドハール・ジャフリーが出版した『究極のカレーバイブル』には、世界中のカレーの情報が満載されており、ラガバン・アイヤルの『カレー660』はカレーの定義を拡大し、サラダ、豆料理、カボブ、パン、飲み物まで含まれている。

新世界で奴隷解放運動が起こると、奴隷ではなくなった人々が今までの重労働を嫌がったため、インド人が雇用されて各国へ移住し始める。当然、インド系の料理もアフリカや新世界などに持ち込まれる事になるのだが、インド人とともにカレーも世界中に広がって行くのは興味深い。やがて、植民地が独立し始めると、旧宗主国へ渡ったインド系の人々が、欧州にもカレーを浸透させて行く。

現在では、イギリス東インド会社の人々が自分達の舌に合うようにアレンジしたアングロ・インディアンカレーと、離散インド人達が草の根レベルで広め、各地の食文化と融合したカレーによって、世界中にカレー文化が広がっている。

「食」の図書館で取り上げられている他の食べ物と違って、あまり歴史と呼べるような部分も無いからか、各国ごとに浸透していくインド料理に関する紹介となっていて、纏め難かった。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

オレンジの歴史

4562053240オレンジの歴史 (「食」の図書館)
クラリッサ ハイマン Clarissa Hyman
原書房 2016-07-26

by G-Tools

甘くてジューシー、ちょっぴり苦いオレンジは、エキゾチックな富の象徴、芸術家の霊感の源だった。原産地中国から世界中に伝播した歴史と、さまざまな文化(園芸、絵画、服飾ほか)や食生活に残した足跡をたどる。


中国南部から東南アジアで進化したオレンジも、欧州の上流階級に広まって行ったが、リンゴと比べると浸透するのが遅い気がする。リンゴが他の土地でも根付きやすいのに比べて、柑橘系は温暖な気候と豊な水を必要とするため、小氷期で寒冷化していた当時の欧州では、育てるのも難しかったのだろう。

大航海時代には大量に輸入されて、王族や貴族の温室で栽培されるようになるが、食用ではなく見せるためのものであって、宮廷に登場する果物盛りも飾りだったようだ。

現代では大量生産されているが、果実を収穫するのは基本的に手作業である。驚くほど安価で提供される裏側には、移民やブラジルの貧民が、不当に安い労働力で大手資本に搾取されているという現実がある。本書でもこの奴隷制度について触れているが、奴隷が存在するのはイスラム国やどこぞのブラックな島国だけじゃないのか。某黒国家では低賃金どころか無賃金強制労働すら存在するから、低賃金なだけまだマシな気もするが。

本書では様々なオレンジが紹介されているが、シチリア島で栽培されているブラッドオレンジが面白い。実際に飲んだ事があるが、見た目はトマトジュースにしか見えないほど赤いのに、味はオレンジジュースである。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

リンゴの歴史

4562051728リンゴの歴史 (「食」の図書館)
エリカ ジャニク Erika Janik
原書房 2015-10-23

by G-Tools

エデンの園、白雪姫、重力の発見、パソコン…人類最初の栽培果樹であり、人間の想像力の源でもあるリンゴの驚きの歴史。原産地と栽培、神話と伝承、リンゴ酒(シードル)、大量生産の功と罪など話題満載。図版多数。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


宗教と結びつく事が多いからか、他の果物とは別格扱いされがちなリンゴに関する本。大西洋を渡ったリンゴが、北米で大量生産されているので、アメリカ原産だと思っている人もいるようだが、原産地はカザフスタンである。大航海時代以前の文献にリンゴが出て来るのだから、そんなはずが無いという事は、少し考えれば分かりそうなものだが。

カザフスタン国境地帯の天山山脈に生えていたこの果実は、人類の活動と共に世界中に広がって行った。遺伝学を否定する学説が支持されていたため、原産地を発見したヴァヴィロフは、スターリンによって投獄され、獄死する。本当の事を言ったら死亡フラグが立つとか、全体主義国家はロクな事をしないな。

元々、リンゴの果実は今ほど大きくはなかった。リンゴの生存戦略からすれば、小さい果実をたくさんつけて、鳥などに運んでもらったほうが有利だからである。適応能力も高いため、他の土地でも育ちやすいが、親とは全く異なるリンゴとして成長してしまう。接ぎ木法が無ければ、同じ種類のリンゴを作るのは困難だったたろう。

今では、北米だけでも14,000種類以上のリンゴが存在するらしいが、流通や販売店側の事情が優先された結果、スーパーで買えるのは僅か20種類ほどらしい。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

砂糖の歴史

4562051752砂糖の歴史 (「食」の図書館)
アンドルー・F. スミス Andrew F. Smith
原書房 2016-01-22

by G-Tools

紀元前のインドで誕生したものの、多くの人が口にするようになったのはこの数百年にすぎない砂糖。急速な普及の背景にある植民地政策や奴隷制度等の負の歴史もふまえ、人類を魅了してきた砂糖の歴史を描く。図版多数。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


紀元前から存在したのに、庶民の口に入るようになったのは最近の事。基本的に暖かい国だとどこでも栽培出来るのだが、人力に頼って精製していた時代は、どうしても安価な労働力が必要となる。精製段階で燃料も必要となるので、森林が伐採されて環境破壊も進んで行く。

かつては欧州だけでなく、中近東やエジプトでも砂糖キビ栽培が盛んだったそうだ。環境破壊だけでなく、安価な労働力を使う生産地に押され、生産拠点が次々に移り変わって行く。

アフリカ西海岸近辺にある島々が欧州列強の植民地になると、アフリカ本土の人間を捕まえて奴隷にして働かせる。次いで、カリブ海の島々やブラジルで生産が始まり、アフリカから何百万という人間が奴隷として送り込まれる。砂糖の歴史がそのまま人類の負の歴史となっていて酷いな。

国家同士も関税問題で揉めて戦争になったりもするが、次第に生産量は増えていき、庶民でも手に入るようになる。パンや菓子に砂糖を使うのが普通になっていくのだが、最初の菓子専門店が出来てから100年とちょっとしか経っていないのか。

砂糖の使用量がインフレ状態となってくると、健康被害も出て来る。特にアメリカ人は、砂糖を食べ過ぎである。砂糖は増やせば増やすほど美味しくなるのではなくて、至福ポイントがあり、それを超えると嫌になるらしいのだが、アメリカの恐ろしいところは、軍が研究してこの至福ポイントを割り出している点である。

最近では、砂糖に変わる甘味料が作られるようになったが、後で発癌性があると判明するものもあったりして、なかなか厄介である。ネオテームという甘味料は砂糖の1万3000倍も甘いだと!? 舐めるだけで、甘すぎて軽く死ねそうな数値で恐ろしい。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

アーサーとアングロサクソン戦争

アーサーとアングロサクソン戦争 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)アーサーとアングロサクソン戦争 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
デヴィッド ニコル、アンガス マックブライド 他

商品詳細を見る

アーサー王伝説となったアーサーの実像はどのようなものだったのだろうか。本書の舞台はおよそ5~11世紀までのブリテン島。イングランド王朝誕生以前のブリテン島は、さまざまな民族が流れ込み、絶えず戦乱が続いていた。本書では、激戦を繰り広げたケルト、アングロ・サクソン、ピクト人やヴァイキングなどを取り上げ、彼らが使用していた武器を詳細に紹介している。資料に乏しく、間違ったイメージを抱いてしまいがちなこの時代を、遺品をもとに軍事の面から正確に把握できる1冊である。


題名はこんなのだけど、実在したか否か、複数の人々をモデルとして伝説化したのか、よくわかっていないアーサー王は少なめ。この地まで進出したローマ帝国から、ケルト部族、新たに侵入してきたアングロサクソン人やヴァイキングまで、混沌としたブリテン島を様々な角度から見ていく。

ローマ帝国が支配している時代が、一番安定して文明化されている感じがするのだが、ローマが撤退した後は小国に分裂して抗争を繰り返すし、大陸から異民族も侵入して来るし、混沌としている。

本書は、オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの一冊なのだが、このシリーズが優れているのは、歴史イラストレーターのアンガス・マックブライドを起用している点である。イラスト付きで武器なども説明されているので、歴史だけでなく、当時の兵士がどのような武装で戦っていたのか、よく分かるようになっている。よく出来たテーブルトークRPGの設定資料みたいになっていて、眺めているだけでも楽しい。


ユリウス・カエサルとともにやってきたローマの軍団は、クラウディウス帝の時代に、イングランドのほぼ全域を支配した。ブリタニアは、ローマが帝政になってから属州となった唯一の地域である。ローマ帝国も、この地の全域を支配する事は出来なかった。トラヤヌス帝の時代までは拡張政策がとられて来たが、ハドリアヌス帝が現在の領土を維持し、内政に力を入れるよう、帝国の方針を転換したからである。

ローマ帝国が崩壊すると、正規軍はこの地から撤退したが、ブリタニア駐屯軍司令や、サクソン沿岸伯などの指令機構は維持され続けた。ブリタニアははローマ軍の撤退によって無政府状態になったわけではなく、ローマ化したブリトン人によって統治される事になる。

ハドリアヌスの城壁守備隊長コールハンの後継者として、各地の支配者が自らの王権を主張し始めるが、壊滅的な疫病の流行と、アングロ・サクソン傭兵による大規模な反乱が発生するなか、司令官や伯、都市の指導者が反目し合い、ローマの名のもとに団結する機会を逃した結果、中央の権力は崩壊する。

6世紀になると、アングロ・サクソン系の小王国が出現するようになる。ケルト人の侵入やピクト人の反乱、大陸側から渡って来る新たな侵入者などの混沌とした時代が続くが、ピクト人はアングロ・サクソンに吸収されてしまう。スコットランドやアイルランドはゲルマン系の部族に征服される事無く、ケルト系国家が継続した。

ブリタニアは、ウェセックス王国のエグバードに統一されるまで、小国が乱立し、七王国と呼ばれていた。ケルト支配地域のスコットランド方面にノーザンブリア王国。中央に広大な領土を有するのがマーシア王国。南部にウェセックス王国。南東や東に小国のサセックス王国、ケント王国、エセックス王国、イースト・アングリア王国が存在した。

655年、ウィンウェドの戦いで異教を代表するマーシアのペンダ王がノーサンブリア王オスウィに敗北し、ケルト系カトリックとローマ教会の対立に終止符が打たれる。664年、ホイットビー宗教会議で、イングランドはローマ系カトリックに属する地域となった。

9世紀、デーン人(デンマークに居住していたノルマン人の一派)がイングランドに侵攻し、1013年にデンマーク王スヴェンがイングランド王となる。1016年にスヴェンの子、カヌートがイングランド王に即位。カヌートの死後、デーン人系の王国は崩壊するが、デーン人はしつこく侵攻してくる。これを追い払ったのが、ウェセックス王国のアルフレッド大王である。

ノルマン人はフランス王国にも侵入していた。フランス王国は追い払う事が出来なかったので、彼らの支配地域をノルマンディー公国として、臣下に加えた。アルフレッド大王の死後、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドに侵攻、1066年のヘイスティングズの戦いで勝利し、ノルマン朝を開いた。


こうやって見てみると、同じ島国でありながら、引き籠ったままでも、モンゴル帝国系の元帝国以外、ほとんど誰も攻めて来なかった日本と違って、イギリスは常に外敵から狙われているし、国内も内戦や分裂ばかりで、血塗れの歴史である事がよく分かる。

アングロ・サクソンは、何であんなに好戦的な民族なのかと思ったていたが、こんな恐ろしい場所に住んでいたら、戦闘民族にならないと生き残れないよね。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

十字軍の軍隊

十字軍の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)十字軍の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
テレンス ワイズ、G.A. エンブルトン 他

商品詳細を見る

西欧諸国連合の十字軍、それを迎え撃ったイスラム勢力。そこでは多様な民族、国家によるさまざまな軍制と装備を見ることができる。本書は十字軍のなかでも、とりわけ初期の十字軍と、時代背景のなかで生まれてきた騎士修道会の軍事面が解説されている。相対するイスラム勢力とともに、聖地とイベリア半島で抗争を繰り広げた両陣営の構造が明らかにされている。


図や写真、イラストを多用して解説しているので非常に分かりやすい。西欧の十字軍だけでなく、キリスト教諸国と戦う事となったアイユーブ朝やマムルーク朝といったイスラム側の勢力にも力を入れているのが良い。歴史的経緯だけでなく、軍制や武具、様々な角度から十字軍の戦いを捉えていく。

カラーイラストも多いので、TRPGの設定資料みたいで楽しい。国王直属の軍隊だけでなく、宗教絡みで動いている騎士団から一攫千金狙いの傭兵部隊まで、様々な思惑で参戦している者がいて、結構カオスな感じである。


聖地奪還という使命を帯びて始まった十字軍だったが、あまりにもお粗末すぎて残念である。本気で戦うつもりがあるのだろうかと突っ込みたくなるほど、兵力が少ない。というのも、ローマ帝国が崩壊して以降は、補給に関する考えや技術が失われてしまったからである。これでは大量に兵力を動員出来るはずがない。

先進国だったローマを崩壊させた蛮族は、ほとんど何も継承しなかったのだろうか。ローマの先進技術はほぼ失われるが、その後1000年くらい蛮族は蛮族のままだったようだ。今でこそゲルマン文明圏は人類最先端だが、中世暗黒時代の残念な事といったら……。

第1回と第2回の十字軍の死者は、ほとんどが飢えと渇きで命を落としたようである。戦いに行って戦死するのではなく、飢え死にするなんて、馬鹿としか思えない。

どの程度の兵力が送られたのかについては資料が乏しいのだが、例えば第3回十字軍でイングランドのリチャード1世が送り込んだ数は、王が使った船の数から考えると、8,000人を超えたはずがない。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサの軍勢は30,000人ほどいたらしいが、実際にアッカに到着してイングランド軍とフランス軍を助けたのは、僅か1,000人だった。

ほとんど嫌がらせレベルの十字軍だったが、第4回からは大義名分すら失われてしまう。聖地エルサレムではなく、肥沃なエジプトを狙ったものの、渡航費用すら不足したため、何故かハンガリーのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略し、同じキリスト教国を攻撃したという理由で、教皇から破門されてしまう。

さらに、ヴェネチアは敵対していた東ローマ帝国のコンスタンティノープルを襲い、キリスト教でも正教は攻撃対象になってしまう。北側でも、北方十字軍が異民族の地を侵略するが、こうなると完璧に私利私欲のための戦いでしかなくなる。少年十字軍なんて、神を信じる馬鹿な子が騙され、奴隷として売り飛ばされているし。

補給も何も考えていない奴らが、一攫千金を狙って好きな所をバラバラに攻撃したところで、文化も文明も動員兵力も西欧を上回っているイスラム勢力に勝てるわけがないのである。

最終的には、中近東方面で土地を強奪して建設されたアンティオキア公国やトリポリ伯国など、キリスト教徒の領土は全て滅ぼされる事となる。ちなみに、トリポリ伯国はリビアの首都ではなくて、現在のレバノン方面にあった港湾都市トリポリである。

十字軍と戦ったイスラム圏の英雄サラディンは、ファーティマ朝式の古い軍制に頼っていたが、次第にアスカリ(マムルーク)と呼ばれる近衛兵で主力を固めるようになる。1187年頃には、アスカリと傭兵12,000人とこれを支える6,000~12,000の封建徴募兵を抱えておけるようになった。

徴募兵よりも親衛隊のほうが強力だったが、次第にマムルーク部隊が力を持つようになる。サリーフ・アイユーブの後継者が、自分の連れて来たマムルークにあらゆる役職を与えてしまうと、バフリー連隊のマムルークは王を暗殺してしまう。

アイユーブ朝は終焉を迎え、エジプトやシリア方面の支配権はバフリー・マムルークの長だったアイバクに受け継がれた。この後はマムルーク朝となるのだが、国内の権力闘争で殺したり殺されたりという状況が続き、殺伐としている。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

図説 神聖ローマ帝国

図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)
(2009/06/17)
菊池 良生

商品詳細を見る

神に選ばれた帝国の興亡。皇帝が、王が、教皇が、入り乱れて錯綜する戦乱と陰謀。古代ローマ帝国への憧憬を抱き、ヨーロッパ覇権を求め続けた帝国の850年にわたる壮大な歴史絵巻。


講談社新書から出ている『神聖ローマ帝国』と被る部分はあるが、地図や年表、系図、絵画等がたくさん使われており分かりやすい。新書とは違った視点で取り込まれているのが、ザクセンの動向である。ザクセンの支配者となったヴェッティン家が帝国内において果たした役割に注目しているのが興味深い。

西ローマ帝国が滅びた後、西ヨーロッパの大半を制圧したのがフランク王国のカール大帝である。フランク族には土地を分割相続するしきたりがあり、カール大帝の遺言によってだけでなく、親族も反旗を翻して軍事的勝利を得たため、ヴェルダン条約によって三分割されてしまう。

東フランク王国部分が神聖ローマ帝国となっていくのだが、第一王朝のザクセン家は1024年に断絶、第二王朝のザリエリ家も1125年に断絶、第三王朝のシュタウフェン家は1268年に断絶している。ハプスブルク家が強大化してからは、皇帝位を独占するようになるのだが、それまでは諸侯が勝手に王を担ぎ出し、反対勢力は対立王を担ぎ出すという大空位時代が続いた。

ある時から、対立王が出現しなくなるのだが、これはカール4世が発した金印勅書のおかげであった。カール4世は金印勅書を帝国議会にかけ、選帝侯をマインツ、ケルン、トリーアの聖界諸侯とボヘミア、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの世俗諸侯、七選帝侯にすると帝国法に成文化して確定させた。

選帝侯という制度が出来てからも問題は続く。マクシミリアン1世が亡くなった後、次期皇帝の候補がスペイン王カルロス1世とヴァロワ朝のフランス王フランソワ1世しかいなかったのである。どちらも余所者である。なんとか帝国内から皇帝を出そうとするが上手く行かず、公職選挙法も無い時代だったから、ハプスブルク家の金庫番である豪商フッガー家とヴェルザー家が金の力にものを言わせて、カルロス1世が選ばれる。

カルロス1世が選ばれる際、フランスとの争いに帝国を巻き込まないという保障条項が明記された。以降、全ての神聖ローマ皇帝が選挙協約を明文化する事になった。これは明らかに皇帝権力の弱体化であるから、カルロス1世即位の時点が、帝国の分岐点であった。フランスなど周辺の強国が中央集権を進めて行くのに対して、神聖ローマ帝国は最後まで名ばばかりで、神聖でもローマでもなく、帝国にすらなれなかった。

ボヘミアは、ルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したハプスブルク君主国の支配を受けた。ハプスブルク家がボヘミア王となるが、この頃はホベミアにはプロテスタントが広まっていた。ハプスブルク家はカトリックなので、最初は宗教的ないがみ合いから三十年戦争が始まってしまう。

スペインとバイエルンは、神聖ローマ皇帝に味方した。ボヘミア鎮圧後、皇帝はカトリック普遍主義を掲げて絶対主義体制確立を目論んだため、プロテスタント諸侯が猛反発する。さらに、カトリックであるはずのフランス王国が、帝国を分裂した状態にとどめておきたいため、プロテスタント諸侯を援助し始める。この時の宰相がリシュリューである。

デンマーク王家だったオルデンブルク家はホルンシュタイン侯爵領を領有していたため、帝国諸侯でもあったのだが、ハルバーシュタット司教領を手に入れようとして、皇帝と対立した。フランスに焚きつけられたデンマークが参戦し、三十年戦争は新たな段階に入る。

皇帝軍にはこれ以上、軍費が賄えない状況に陥っていたが、傭兵隊長ヴァレンシュタインが自前で5万もの軍隊を編成して戦い始める。ボヘミアの小貴族にすぎないヴァレンシュタインだったが、ユダヤ人の金融シンジケートから融資してもらい、皇帝からは軍税徴収権を手に入れた。これまで散発的に行われていた略奪行為を、組織的に軍全体で行えるようになったヴァレンシュタインにより、デンマークは敗北する。

自分の領地で勝手に徴税出来るようになったヴァレンシュタインに危機感を募らせた諸侯達は、皇帝に圧力をかけ始め、ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官を罷免されてしまう。またしてもフランスが裏でこの戦争に介入する。今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフを唆し、参戦させたのである。

スウェーデン軍は、従来のものとはかなり違っていた。人口100万の国に10万もの常備軍を揃え、兵士3名で運べる4ポンド砲をつくり、それまでは攻城戦にしか用をなさなかった大砲を野戦に投入した。マスケット銃兵を交代させる事で連射出来る状況も作り出した。今まで見た事もないスウェーデン軍の新戦術の前に、皇帝軍は敗北する。

慌てた皇帝はヴァレンシュタインを呼び戻してスウェーデン軍に当たらせるが、ヴァレンシュタインも命からがら敗走する羽目になる。スウェーデン軍は勝利したはずだったが、ここで予想外の事態に陥る。スウェーデン王グスタフ・アドルフに弾が当たり、戦死してしまったのだ。

グスタフ・アドルフは戦死、ヴァレンシュタインは暗殺され、戦争を始めた当事者である皇帝フェルディナントも1637年に崩御、影の主役であったリシュリューすら1642年に世を去ってしまった。厭戦気分が蔓延し、1648年のウェストファリア条約で、ようやく長い戦いが集結する。

ウェストファリア条約は、皇帝と帝国に敵対しない限り、帝国諸侯の主権が完全に認められたものである。諸侯には外国との同盟権すら認められており、帝国は国家連合に解体されたのである。これは実質上、神聖ローマ帝国の終焉であった。

ウェストファリア条約によって、帝国は骨抜きにされたが、皮肉にも、そのウェストファリア条約でバランス・オブ・パワーという知恵を得た欧州は、フランス一国が強大化する事を恐れて、帝国を存続させる力となる。イギリスやオランダにとっても、帝国存続は大きな意味を持つようになったのである。

オーストリアは東から攻め込んで来るオスマン・トルコと戦うために膨大な戦費を捻出していた。1697年、皇帝軍がドナウ支流ティサ河畔のセンタでオスマン・トルコを破り、ハンガリーの大部分とトランシルヴァニアをオーストリアが得た。これでオスマン・トルコの国力は急速に衰え、東からの脅威は去った。

フランスは未だに神聖ローマ帝国を狙っていたが、神聖ローマ皇帝カール6世が後継者を決めないまま崩御すると、この機に乗じて野心を剥き出しにする。オーストリア継承戦争が勃発するのだが、各国の思惑でフランス、オーストリアに加担する勢力も含めて、欧州全土どころか植民地にまで飛び火する大戦争となってしまう。新大陸やインドでも戦闘が始まり、結局はプロイセンが少しだけ得した他は、得る物がほとんどないという酷い結果に終わる。

こうやって、余計な野心で無駄金を使いまくった事は、フランス革命という形となって我が身に降りかかるのだが、革命で王政を廃止したのに、何故かナポレオンという皇帝が即位するという、わけの分からない事になってしまう。

従来、西欧における皇帝とはローマ帝国の後継者という位置付けであったのだから、勝手に皇帝を名乗ったりしてはいけないのである。ロシアも皇帝を名乗ってはいるが、これは1453年に滅亡した東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪ソフィアを娶る事で、東ローマ帝国の後継者であるとしたのだから、まだ理屈は通る。

しかし、フランス皇帝のナポレオンは、勝手に即位しただけで、ローマ帝国とは何の関係も無いし、大義名分も無いではないか。最後の最後は、中世におけるローマとローマの理念が、突如現れたナポレオンという怪物によって、粉みじんに打ち砕かれてしまったのである。

神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世として即位すると、神聖ローマ帝国がナポレオンによって存続しないよう、1806年に神聖ローマ皇帝を退位し、帝国を埋葬する事にした。962年にドイツ王オットー1世が戴冠して以来続いて来た神聖ローマ帝国は消滅した。



にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ