レモンの歴史

4562051116レモンの歴史 (「食」の図書館)
トビー ゾンネマン Toby Sonneman
原書房 2014-11-27

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しぼって、切って、漬けておいしく、油としても使えるレモンの歴史。信仰や儀式との関係、メディチ家の重要な役割、重病の特効薬…アラブ人が世界に伝えた果物には驚きのエピソードがいっぱい!レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


まだユーラシアとオーストラリアが繋がっていた2,000万年前、マンダリン、ザボン、シトロンという3種類の柑橘類が自然発生した。他の柑橘類は、この3種類が自然交雑する事で生まれた交配種である。

レモンは遺伝的特徴のほとんどをシトロンから受け継いでいる。シトロンは異様に大きく、でこぼこしたレモンといった感じの果物であると書かれているが、シトロンを見た事が無いのでグーグル先生に聞いてみたところ……。ちくしょう! よく分からんけど、眼鏡をかけた金髪キャラばかり出てきやがる(笑)!

シトロンはインド東北部に生えていたらしいが、メディア、ペルシア、バビロニアと旅を旅を続け、ユダヤ人によってパレスチナに到達。さらに、アレクサンドロス大王と出会い、地中海へ。欧州に到達した最初の柑橘類となるが、この時点ではまだシトロンであり、レモンに進化していない。

シトロンは水気が少なく、苦みがある不味い食べ物だったが、万病に効く薬や解毒剤だと考えられたため、珍重された。話の流れからすると、このシトロンが地中海でレモンに進化するのかと思うが、詳しい事が分かっていないだと!? ただ、4世紀にレモンとシトロンを混同している司祭がいるので、その頃には存在していたようである。

ペルシア人やアラブ人がレモンを好んでいたらしいので、地中海でレモンになったのではなく、原産地でレモンに進化したものが、シトロンの後を追って西側に旅をして来たのかもしれない。イスラム教の拡大とともに、レモンも地中海に広まった。シチリア島は、カリフォルニアに抜かされる20世紀の初めまで、世界最大のレモン生産地であり続けた。

今では普通に買えるレモンだが、中世だと宮殿の晩餐会で飾られる高級品だった。当時の物価が分からないので、具体的にどのくらいの高級品なのか不明だが、現代で例えると、金持ちの家に遊びに行ったら出て来る、諭吉さん単位の高級メロンみたいな感じだったのかね?

フィレンツェのメディチ家は柑橘類を栽培していたが、カテリーナ・デ・メディチがフランスのアンリ2世と結婚する時、料理人や菓子職人を同行させた。この料理人達が、レモンなどの柑橘類の利用を促した可能性が高い。カテリーナの孫、ルイ14世は温室で柑橘類を栽培し、権力の象徴とした。

大航海時代になると、船乗り達は海の疫病で300年間も苦しめられる事になる。この恐ろしい病で200万人を超える船乗りが死んだが、レモンが救世主となる事を知るまでに長い時間がかかった。

大西洋を渡ったレモンは、当初は欧州産のものと比べ物にならないほど粗悪品だったが、カリフォルニアで高品質のものが作られるようになる。柑橘類生産者販売協同組合がサンキストというブランドで売り込みに成功し、大恐慌が深刻化する中でさえ、レモン栽培農家の繁栄は続いた。

世界中に広がった柑橘類だが、良い事ばかりではない。1930~1950年代にトリステザというウイルスが広がり、1億本が枯れ、さらに何億本も被害が出た。人間で例えたら新型インフルエンザのパンデミックみたいな感じである。現在も、カンキツグリーニング病という病が広がっている。

レモンは食べるためだけでなく、洗剤、つや出し剤、消臭スプレー、シャンプー、保湿剤、香水など、様々な物に使われている。レモンを直接食べる事は少なくても、これだけ生活に関わっているとなると、レモン畑が壊滅したら困った事になるだろう。


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カレーの歴史

4562049383カレーの歴史 (「食」の図書館)
コリーン テイラー セン 竹田 円
原書房 2013-08-26

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「グローバル」という形容詞がふさわしいカレー。インド、イギリスはもちろん、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジアそして日本など、世界中のカレーの歴史について多くのカラー図版とともに楽しく読み解く。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


カレーといえばインド料理であるとイメージされているが、実際にはインドの煮込み料理は、サーグ、サンバール、コルマ、ダールなど、それぞれに固有の名称があり、「カレー」という料理はない。かつて宗主国だったイギリスが、インド料理をカレーとして諸外国に伝えたので、そう呼ばれるようになった。

東インド会社が解散させられ、帝国総督府が創設されると、植民地支配の傾向が強まり、インド料理も敬遠されるようになった。カレーは社会的地位を失い、上流階級の食卓から姿を消したが、軍隊の食堂や、イギリス本国の一般家庭では相変わらず食べられていた。

カレーを普及させた最大の功労者は、1982年にカレークラブを創設したパット・チャップマンである。彼が多くの出版物でカレーハウスやバルチ・レストランのレシプを紹介したので、非インド系の人々も、自宅で手軽にカレーを試せるようになった。

マドハール・ジャフリーが出版した『究極のカレーバイブル』には、世界中のカレーの情報が満載されており、ラガバン・アイヤルの『カレー660』はカレーの定義を拡大し、サラダ、豆料理、カボブ、パン、飲み物まで含まれている。

新世界で奴隷解放運動が起こると、奴隷ではなくなった人々が今までの重労働を嫌がったため、インド人が雇用されて各国へ移住し始める。当然、インド系の料理もアフリカや新世界などに持ち込まれる事になるのだが、インド人とともにカレーも世界中に広がって行くのは興味深い。やがて、植民地が独立し始めると、旧宗主国へ渡ったインド系の人々が、欧州にもカレーを浸透させて行く。

現在では、イギリス東インド会社の人々が自分達の舌に合うようにアレンジしたアングロ・インディアンカレーと、離散インド人達が草の根レベルで広め、各地の食文化と融合したカレーによって、世界中にカレー文化が広がっている。

「食」の図書館で取り上げられている他の食べ物と違って、あまり歴史と呼べるような部分も無いからか、各国ごとに浸透していくインド料理に関する紹介となっていて、纏め難かった。


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オレンジの歴史

4562053240オレンジの歴史 (「食」の図書館)
クラリッサ ハイマン Clarissa Hyman
原書房 2016-07-26

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甘くてジューシー、ちょっぴり苦いオレンジは、エキゾチックな富の象徴、芸術家の霊感の源だった。原産地中国から世界中に伝播した歴史と、さまざまな文化(園芸、絵画、服飾ほか)や食生活に残した足跡をたどる。


中国南部から東南アジアで進化したオレンジも、欧州の上流階級に広まって行ったが、リンゴと比べると浸透するのが遅い気がする。リンゴが他の土地でも根付きやすいのに比べて、柑橘系は温暖な気候と豊な水を必要とするため、小氷期で寒冷化していた当時の欧州では、育てるのも難しかったのだろう。

大航海時代には大量に輸入されて、王族や貴族の温室で栽培されるようになるが、食用ではなく見せるためのものであって、宮廷に登場する果物盛りも飾りだったようだ。

現代では大量生産されているが、果実を収穫するのは基本的に手作業である。驚くほど安価で提供される裏側には、移民やブラジルの貧民が、不当に安い労働力で大手資本に搾取されているという現実がある。本書でもこの奴隷制度について触れているが、奴隷が存在するのはイスラム国やどこぞのブラックな島国だけじゃないのか。某黒国家では低賃金どころか無賃金強制労働すら存在するから、低賃金なだけまだマシな気もするが。

本書では様々なオレンジが紹介されているが、シチリア島で栽培されているブラッドオレンジが面白い。実際に飲んだ事があるが、見た目はトマトジュースにしか見えないほど赤いのに、味はオレンジジュースである。


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リンゴの歴史

4562051728リンゴの歴史 (「食」の図書館)
エリカ ジャニク Erika Janik
原書房 2015-10-23

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エデンの園、白雪姫、重力の発見、パソコン…人類最初の栽培果樹であり、人間の想像力の源でもあるリンゴの驚きの歴史。原産地と栽培、神話と伝承、リンゴ酒(シードル)、大量生産の功と罪など話題満載。図版多数。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


宗教と結びつく事が多いからか、他の果物とは別格扱いされがちなリンゴに関する本。大西洋を渡ったリンゴが、北米で大量生産されているので、アメリカ原産だと思っている人もいるようだが、原産地はカザフスタンである。大航海時代以前の文献にリンゴが出て来るのだから、そんなはずが無いという事は、少し考えれば分かりそうなものだが。

カザフスタン国境地帯の天山山脈に生えていたこの果実は、人類の活動と共に世界中に広がって行った。遺伝学を否定する学説が支持されていたため、原産地を発見したヴァヴィロフは、スターリンによって投獄され、獄死する。本当の事を言ったら死亡フラグが立つとか、全体主義国家はロクな事をしないな。

元々、リンゴの果実は今ほど大きくはなかった。リンゴの生存戦略からすれば、小さい果実をたくさんつけて、鳥などに運んでもらったほうが有利だからである。適応能力も高いため、他の土地でも育ちやすいが、親とは全く異なるリンゴとして成長してしまう。接ぎ木法が無ければ、同じ種類のリンゴを作るのは困難だったたろう。

今では、北米だけでも14,000種類以上のリンゴが存在するらしいが、流通や販売店側の事情が優先された結果、スーパーで買えるのは僅か20種類ほどらしい。


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砂糖の歴史

4562051752砂糖の歴史 (「食」の図書館)
アンドルー・F. スミス Andrew F. Smith
原書房 2016-01-22

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紀元前のインドで誕生したものの、多くの人が口にするようになったのはこの数百年にすぎない砂糖。急速な普及の背景にある植民地政策や奴隷制度等の負の歴史もふまえ、人類を魅了してきた砂糖の歴史を描く。図版多数。レシピ付。料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞した人気シリーズ。


紀元前から存在したのに、庶民の口に入るようになったのは最近の事。基本的に暖かい国だとどこでも栽培出来るのだが、人力に頼って精製していた時代は、どうしても安価な労働力が必要となる。精製段階で燃料も必要となるので、森林が伐採されて環境破壊も進んで行く。

かつては欧州だけでなく、中近東やエジプトでも砂糖キビ栽培が盛んだったそうだ。環境破壊だけでなく、安価な労働力を使う生産地に押され、生産拠点が次々に移り変わって行く。

アフリカ西海岸近辺にある島々が欧州列強の植民地になると、アフリカ本土の人間を捕まえて奴隷にして働かせる。次いで、カリブ海の島々やブラジルで生産が始まり、アフリカから何百万という人間が奴隷として送り込まれる。砂糖の歴史がそのまま人類の負の歴史となっていて酷いな。

国家同士も関税問題で揉めて戦争になったりもするが、次第に生産量は増えていき、庶民でも手に入るようになる。パンや菓子に砂糖を使うのが普通になっていくのだが、最初の菓子専門店が出来てから100年とちょっとしか経っていないのか。

砂糖の使用量がインフレ状態となってくると、健康被害も出て来る。特にアメリカ人は、砂糖を食べ過ぎである。砂糖は増やせば増やすほど美味しくなるのではなくて、至福ポイントがあり、それを超えると嫌になるらしいのだが、アメリカの恐ろしいところは、軍が研究してこの至福ポイントを割り出している点である。

最近では、砂糖に変わる甘味料が作られるようになったが、後で発癌性があると判明するものもあったりして、なかなか厄介である。ネオテームという甘味料は砂糖の1万3000倍も甘いだと!? 舐めるだけで、甘すぎて軽く死ねそうな数値で恐ろしい。


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カルタゴ戦争

カルタゴ戦争―265BC‐146BCポエニ戦争の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)カルタゴ戦争―265BC‐146BCポエニ戦争の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
テレンス ワイズ、リチャード フック 他

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フェニキア人によってチュニジアに築かれた都市カルタゴは、地中海の覇権をめぐり協和国ローマと激突する。265BCに勃発したカルタゴ戦争(ポエニ戦争)はカルタゴが滅亡する146BCまで3回にわたって行われた。本書は、当時のカルタゴおよび敵対するローマの軍事行動を中心に解説。両軍の部隊編成から装備、戦法にいたるまで、その効果とともに詳細に語られている。


世界史の授業ではローマの敵として軽く触れられる程度で、あまり詳しくは教えられないカルタゴ側視点も多いのが興味深い。当時の地図を見ると、地中海の島々はカルタゴが押さえており、東方でギリシアの拡大を阻止するだけなくイベリア半島まで版図に組み込んでいる。カルタゴは地中海世界をローマ帝国と二分する大勢力であり、支配権を巡って激突するのは必然だったのかもしれない。

最終的にカルタゴが滅ぼされるまで、3度も戦争が起こっているが、終始ローマが優勢だった訳ではなく、ローマ帝国が敗北している戦闘もある。ローマ側に運命の天秤が傾かなければ、全く違った歴史が展開されていた可能性もあるわけで、カルタゴ戦争は歴史の重要な転換点になっていると思う。


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アーサーとアングロサクソン戦争

アーサーとアングロサクソン戦争 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)アーサーとアングロサクソン戦争 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
デヴィッド ニコル、アンガス マックブライド 他

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アーサー王伝説となったアーサーの実像はどのようなものだったのだろうか。本書の舞台はおよそ5~11世紀までのブリテン島。イングランド王朝誕生以前のブリテン島は、さまざまな民族が流れ込み、絶えず戦乱が続いていた。本書では、激戦を繰り広げたケルト、アングロ・サクソン、ピクト人やヴァイキングなどを取り上げ、彼らが使用していた武器を詳細に紹介している。資料に乏しく、間違ったイメージを抱いてしまいがちなこの時代を、遺品をもとに軍事の面から正確に把握できる1冊である。


題名はこんなのだけど、実在したか否か、複数の人々をモデルとして伝説化したのか、よくわかっていないアーサー王は少なめ。この地まで進出したローマ帝国から、ケルト部族、新たに侵入してきたアングロサクソン人やヴァイキングまで、混沌としたブリテン島を様々な角度から見ていく。

ローマ帝国が支配している時代が、一番安定して文明化されている感じがするのだが、ローマが撤退した後は小国に分裂して抗争を繰り返すし、大陸から異民族も侵入して来るし、混沌としている。

本書は、オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの一冊なのだが、このシリーズが優れているのは、歴史イラストレーターのアンガス・マックブライドを起用している点である。イラスト付きで武器なども説明されているので、歴史だけでなく、当時の兵士がどのような武装で戦っていたのか、よく分かるようになっている。よく出来たテーブルトークRPGの設定資料みたいになっていて、眺めているだけでも楽しい。


ユリウス・カエサルとともにやってきたローマの軍団は、クラウディウス帝の時代に、イングランドのほぼ全域を支配した。ブリタニアは、ローマが帝政になってから属州となった唯一の地域である。ローマ帝国も、この地の全域を支配する事は出来なかった。トラヤヌス帝の時代までは拡張政策がとられて来たが、ハドリアヌス帝が現在の領土を維持し、内政に力を入れるよう、帝国の方針を転換したからである。

ローマ帝国が崩壊すると、正規軍はこの地から撤退したが、ブリタニア駐屯軍司令や、サクソン沿岸伯などの指令機構は維持され続けた。ブリタニアははローマ軍の撤退によって無政府状態になったわけではなく、ローマ化したブリトン人によって統治される事になる。

ハドリアヌスの城壁守備隊長コールハンの後継者として、各地の支配者が自らの王権を主張し始めるが、壊滅的な疫病の流行と、アングロ・サクソン傭兵による大規模な反乱が発生するなか、司令官や伯、都市の指導者が反目し合い、ローマの名のもとに団結する機会を逃した結果、中央の権力は崩壊する。

6世紀になると、アングロ・サクソン系の小王国が出現するようになる。ケルト人の侵入やピクト人の反乱、大陸側から渡って来る新たな侵入者などの混沌とした時代が続くが、ピクト人はアングロ・サクソンに吸収されてしまう。スコットランドやアイルランドはゲルマン系の部族に征服される事無く、ケルト系国家が継続した。

ブリタニアは、ウェセックス王国のエグバードに統一されるまで、小国が乱立し、七王国と呼ばれていた。ケルト支配地域のスコットランド方面にノーザンブリア王国。中央に広大な領土を有するのがマーシア王国。南部にウェセックス王国。南東や東に小国のサセックス王国、ケント王国、エセックス王国、イースト・アングリア王国が存在した。

655年、ウィンウェドの戦いで異教を代表するマーシアのペンダ王がノーサンブリア王オスウィに敗北し、ケルト系カトリックとローマ教会の対立に終止符が打たれる。664年、ホイットビー宗教会議で、イングランドはローマ系カトリックに属する地域となった。

9世紀、デーン人(デンマークに居住していたノルマン人の一派)がイングランドに侵攻し、1013年にデンマーク王スヴェンがイングランド王となる。1016年にスヴェンの子、カヌートがイングランド王に即位。カヌートの死後、デーン人系の王国は崩壊するが、デーン人はしつこく侵攻してくる。これを追い払ったのが、ウェセックス王国のアルフレッド大王である。

ノルマン人はフランス王国にも侵入していた。フランス王国は追い払う事が出来なかったので、彼らの支配地域をノルマンディー公国として、臣下に加えた。アルフレッド大王の死後、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドに侵攻、1066年のヘイスティングズの戦いで勝利し、ノルマン朝を開いた。


こうやって見てみると、同じ島国でありながら、引き籠ったままでも、モンゴル帝国系の元帝国以外、ほとんど誰も攻めて来なかった日本と違って、イギリスは常に外敵から狙われているし、国内も内戦や分裂ばかりで、血塗れの歴史である事がよく分かる。

アングロ・サクソンは、何であんなに好戦的な民族なのかと思ったていたが、こんな恐ろしい場所に住んでいたら、戦闘民族にならないと生き残れないよね。


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十字軍の軍隊

十字軍の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)十字軍の軍隊 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
(2000/10)
テレンス ワイズ、G.A. エンブルトン 他

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西欧諸国連合の十字軍、それを迎え撃ったイスラム勢力。そこでは多様な民族、国家によるさまざまな軍制と装備を見ることができる。本書は十字軍のなかでも、とりわけ初期の十字軍と、時代背景のなかで生まれてきた騎士修道会の軍事面が解説されている。相対するイスラム勢力とともに、聖地とイベリア半島で抗争を繰り広げた両陣営の構造が明らかにされている。


図や写真、イラストを多用して解説しているので非常に分かりやすい。十字軍だけでなく、キリスト教諸国と戦う事となったイスラム側勢力にも力を入れているのが良い。歴史的経緯だけでなく、軍制や武具、様々な角度から十字軍の戦いを捉えていく。

カラーイラストも多いので、TRPGの設定資料みたいで楽しい。国王直属の軍隊だけでなく、宗教絡みで動いている騎士団から一攫千金狙いの傭兵部隊まで、様々な思惑で参戦している者がいて、結構カオスな感じである。


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図説 神聖ローマ帝国

図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)
(2009/06/17)
菊池 良生

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神に選ばれた帝国の興亡。皇帝が、王が、教皇が、入り乱れて錯綜する戦乱と陰謀。古代ローマ帝国への憧憬を抱き、ヨーロッパ覇権を求め続けた帝国の850年にわたる壮大な歴史絵巻。


講談社新書から出ている『神聖ローマ帝国』と被る部分はあるが、地図や年表、系図、絵画等がたくさん使われており分かりやすい。新書とは違った視点で取り込まれているのが、ザクセンの動向である。ザクセンの支配者となったヴェッティン家が帝国内において果たした役割に注目しているのが興味深い。

西ローマ帝国が滅びた後、西ヨーロッパの大半を制圧したのがフランク王国のカール大帝である。フランク族には土地を分割相続するしきたりがあり、カール大帝の遺言によってだけでなく、親族も反旗を翻して軍事的勝利を得たため、ヴェルダン条約によって三分割されてしまう。

東フランク王国部分が神聖ローマ帝国となっていくのだが、第一王朝のザクセン家は1024年に断絶、第二王朝のザリエリ家も1125年に断絶、第三王朝のシュタウフェン家は1268年に断絶している。ハプスブルク家が強大化してからは、皇帝位を独占するようになるのだが、それまでは諸侯が勝手に王を担ぎ出し、反対勢力は対立王を担ぎ出すという大空位時代が続いた。

ある時から、対立王が出現しなくなるのだが、これはカール4世が発した金印勅書のおかげであった。カール4世は金印勅書を帝国議会にかけ、選帝侯をマインツ、ケルン、トリーアの聖界諸侯とボヘミア、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの世俗諸侯、七選帝侯にすると帝国法に成文化して確定させた。

選帝侯という制度が出来てからも問題は続く。マクシミリアン1世が亡くなった後、次期皇帝の候補がスペイン王カルロス1世とヴァロワ朝のフランス王フランソワ1世しかいなかったのである。どちらも余所者である。なんとか帝国内から皇帝を出そうとするが上手く行かず、公職選挙法も無い時代だったから、ハプスブルク家の金庫番である豪商フッガー家とヴェルザー家が金の力にものを言わせて、カルロス1世が選ばれる。

カルロス1世が選ばれる際、フランスとの争いに帝国を巻き込まないという保障条項が明記された。以降、全ての神聖ローマ皇帝が選挙協約を明文化する事になった。これは明らかに皇帝権力の弱体化であるから、カルロス1世即位の時点が、帝国の分岐点であった。フランスなど周辺の強国が中央集権を進めて行くのに対して、神聖ローマ帝国は最後まで名ばばかりで、神聖でもローマでもなく、帝国にすらなれなかった。

ボヘミアは、ルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したハプスブルク君主国の支配を受けた。ハプスブルク家がボヘミア王となるが、この頃はホベミアにはプロテスタントが広まっていた。ハプスブルク家はカトリックなので、最初は宗教的ないがみ合いから三十年戦争が始まってしまう。

スペインとバイエルンは、神聖ローマ皇帝に味方した。ボヘミア鎮圧後、皇帝はカトリック普遍主義を掲げて絶対主義体制確立を目論んだため、プロテスタント諸侯が猛反発する。さらに、カトリックであるはずのフランス王国が、帝国を分裂した状態にとどめておきたいため、プロテスタント諸侯を援助し始める。この時の宰相がリシュリューである。

デンマーク王家だったオルデンブルク家はホルンシュタイン侯爵領を領有していたため、帝国諸侯でもあったのだが、ハルバーシュタット司教領を手に入れようとして、皇帝と対立した。フランスに焚きつけられたデンマークが参戦し、三十年戦争は新たな段階に入る。

皇帝軍にはこれ以上、軍費が賄えない状況に陥っていたが、傭兵隊長ヴァレンシュタインが自前で5万もの軍隊を編成して戦い始める。ボヘミアの小貴族にすぎないヴァレンシュタインだったが、ユダヤ人の金融シンジケートから融資してもらい、皇帝からは軍税徴収権を手に入れた。これまで散発的に行われていた略奪行為を、組織的に軍全体で行えるようになったヴァレンシュタインにより、デンマークは敗北する。

自分の領地で勝手に徴税出来るようになったヴァレンシュタインに危機感を募らせた諸侯達は、皇帝に圧力をかけ始め、ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官を罷免されてしまう。またしてもフランスが裏でこの戦争に介入する。今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフを唆し、参戦させたのである。

スウェーデン軍は、従来のものとはかなり違っていた。人口100万の国に10万もの常備軍を揃え、兵士3名で運べる4ポンド砲をつくり、それまでは攻城戦にしか用をなさなかった大砲を野戦に投入した。マスケット銃兵を交代させる事で連射出来る状況も作り出した。今まで見た事もないスウェーデン軍の新戦術の前に、皇帝軍は敗北する。

慌てた皇帝はヴァレンシュタインを呼び戻してスウェーデン軍に当たらせるが、ヴァレンシュタインも命からがら敗走する羽目になる。スウェーデン軍は勝利したはずだったが、ここで予想外の事態に陥る。スウェーデン王グスタフ・アドルフに弾が当たり、戦死してしまったのだ。

グスタフ・アドルフは戦死、ヴァレンシュタインは暗殺され、戦争を始めた当事者である皇帝フェルディナントも1637年に崩御、影の主役であったリシュリューすら1642年に世を去ってしまった。厭戦気分が蔓延し、1648年のウェストファリア条約で、ようやく長い戦いが集結する。

ウェストファリア条約は、皇帝と帝国に敵対しない限り、帝国諸侯の主権が完全に認められたものである。諸侯には外国との同盟権すら認められており、帝国は国家連合に解体されたのである。これは実質上、神聖ローマ帝国の終焉であった。

ウェストファリア条約によって、帝国は骨抜きにされたが、皮肉にも、そのウェストファリア条約でバランス・オブ・パワーという知恵を得た欧州は、フランス一国が強大化する事を恐れて、帝国を存続させる力となる。イギリスやオランダにとっても、帝国存続は大きな意味を持つようになったのである。

オーストリアは東から攻め込んで来るオスマン・トルコと戦うために膨大な戦費を捻出していた。1697年、皇帝軍がドナウ支流ティサ河畔のセンタでオスマン・トルコを破り、ハンガリーの大部分とトランシルヴァニアをオーストリアが得た。これでオスマン・トルコの国力は急速に衰え、東からの脅威は去った。

フランスは未だに神聖ローマ帝国を狙っていたが、神聖ローマ皇帝カール6世が後継者を決めないまま崩御すると、この機に乗じて野心を剥き出しにする。オーストリア継承戦争が勃発するのだが、各国の思惑でフランス、オーストリアに加担する勢力も含めて、欧州全土どころか植民地にまで飛び火する大戦争となってしまう。新大陸やインドでも戦闘が始まり、結局はプロイセンが少しだけ得した他は、得る物がほとんどないという酷い結果に終わる。

こうやって、余計な野心で無駄金を使いまくった事は、フランス革命という形となって我が身に降りかかるのだが、革命で王政を廃止したのに、何故かナポレオンという皇帝が即位するという、わけの分からない事になってしまう。

従来、西欧における皇帝とはローマ帝国の後継者という位置付けであったのだから、勝手に皇帝を名乗ったりしてはいけないのである。ロシアも皇帝を名乗ってはいるが、これは1453年に滅亡した東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪ソフィアを娶る事で、東ローマ帝国の後継者であるとしたのだから、まだ理屈は通る。

しかし、フランス皇帝のナポレオンは、勝手に即位しただけで、ローマ帝国とは何の関係も無いし、大義名分も無いではないか。最後の最後は、中世におけるローマとローマの理念が、突如現れたナポレオンという怪物によって、粉みじんに打ち砕かれてしまったのである。

神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世として即位すると、神聖ローマ帝国がナポレオンによって存続しないよう、1806年に神聖ローマ皇帝を退位し、帝国を埋葬する事にした。962年にドイツ王オットー1世が戴冠して以来続いて来た神聖ローマ帝国は消滅した。



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